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第02話 『作詞者・作曲者は偶然の組み合わせ』

作詞:土井晩翠 作曲:岡野貞一

土井晩翠

在学中、校歌楽譜の右上に記載されていたビッグネーム二名に、さすが北野やな、と訳も分からず驚いたものですが、この奇跡のコラボは実は北野中学の意思で実現できたものではありませんでした。また、作曲:岡野貞一のネームバリューは昭和も終盤になってから高まったものでありました。今回は六稜の星校歌の作詞・作曲者選定の経緯を紹介します。

北野中学の場合、校歌は最初に詞を完成させ、後から曲を付けています。まず作詞。梶山校長と土井晩翠を繋ぎ、作詞依頼の仲介を行ったのは東京音楽学校長の湯原元一です。

湯原元一

湯原は梶山と同じ東大から文部省地方教育畑の三級上の先輩にあたります。東京音楽学校内に設置された文部省委託の唱歌編集委員会委員長を務めていた湯原は、識者の土井晩翠とは旧知の間柄であったのです。作詞と言っても晩翠が遠く大阪の事情や北野中学の歴史・理念等に精通していた訳ではありません。六稜の星校歌はまず北野の教職員らが詞に織り込みたい文言・要素を集め、それらを素材として高名な先生に作詞、お化粧、冠名等をお願いするという要領でありました。また当時の校歌制作は複数名同時に依頼を行ったり、完成後の歌詞を学校側が勝手に添削したりすることもあったようで、もし晩翠の歌詞が希望の納期までに届かなかった場合は、北野の校歌は晩翠とは違う先生の詞が採用されていたかもしれませんでした。

一方、東京音楽学校内に設置されていた唱歌編集委員会で作曲部門の一担当だったのが岡野貞一です。

岡野貞一

当時、実力派の助教授でありましたが、作曲家としては無名の存在でありました。北野中学梶山校長は湯原校長に宛てた手紙の中で作曲者の選定を一任しており、大学内で校長と助教授との力関係があったのでしょうか、湯原の指示により岡野は短納期での校歌作曲を請け負う羽目になったのです。

梶山延太郎 北野中学校長

 ところで、六稜の星校歌が制定された1915年、この頃は音楽著作権に対する認識が現代と全く異なっており、教科書に掲載される唱歌や公の出版物には作詞作曲者など個人名を出さないという滅私奉公みたいなお約束がありました。岡野貞一の国民的代表曲『故郷(ふるさと)』ですら、岡野が作曲者として認定されたのは彼の死後四半世紀も経った1967年のことだったそうです。六稜の星校歌誕生が1915年、ということは我が校の校歌も岡野貞一って誰なの?という期間が少なくとも52年は続いたことになります。

ちなみに、土井晩翠(どいばんすい)の本名は土井林吉(つちいりんきち)です。文壇では、「つちいばんすい」で長らく活躍していましたが、あまりに誤読が激しいとの理由で晩年(60歳を過ぎてから)「どいばんすい」に改名しました。

1915年の校歌制定当時、生徒に配られた校歌の紙の右上には、作詞・作曲者の記載はおそらくなかったことでしょう。生徒たちが作詞作曲者名を教えられたとしても、作詞は「つちいばんすい」、作曲は国民的大作曲家ではなく東京音楽学校助教授、無名の岡野貞一さんです。(第03話へ続く

(文責:98期 佐野憲一)


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