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第04話 『土井晩翠の原作は、一文字たりとも書き換えてはいけません。』

1915年土井晩翠作詞の六稜の星校歌の原作をそのまま添付します。
皆さま、在学中に習った歌詞との大きな相違点が三つあることに既にお気付きかと思います。数字表現ニつと学校名です。

  • 一番、晩翠の原作は紅顔の子弟“幾百”。ここ在学中の小生(98期)は“千有余”と習いました。
  • 二番、原作は“四十餘年”花は薫りぬ。ここは“百有余年花は薫りぬ”と。

「今の数に置き換え歌い継がれて来ました」と音楽科の西川昭子先生がおっしゃっていましたか、小生の記憶は既に曖昧です。

第4回は晩翠の原作との比較で、数字置き換えの根本的誤りを指摘したいと思います。

  • 一番、♪六稜の星の印を青春の額にかざし、紅顔の子弟幾百日に通ふ北野中學。

 北野に通学するとても元気な生徒たちの様子を”星”を用いて表現しています。イメージはピカピカの一年生。北野芝田町にできた立派な校舎の窓から通学風景を眺めていると、帽子の六稜星が朝の光を反射してキラキラと輝いている。それはまるで天に煌めく幾百幾千の星のようで希望に満ち溢れていると。生徒の通学を星に例えているから“幾百”という無定量表現を用いています。在籍生徒数を意識した“千有余”などと安易な実数もどきで書き換えてはいけません。ちなみに校歌制定時の1915年でも北野中学の在籍生徒数は既に750名を超えていました。晩翠や学校サイドがわざわざ過少な生徒数を歌詞に織り込む理由も見当たりません。

  • 二番、その昔難波御堂に、堂島に、次ぎて北野に、育英の門を開きて四十余年花は香りぬ。

 一見校舎所在地の変遷かと誤解しがちな表現ですが、ここは深いです。句読点にも意味があります。難波御堂とは真宗大谷派難波別院(南御堂)、大変立派なお寺さんです。1873年難波御堂さんの敷地に間借りして開学した我が校(欧学校)は場所を変え校名を変えようやく北野という地に辿り着き、そこに念願の新校舎を建てることができたのです。

 その様を晩翠は「四十餘年」と表現しています。「四十餘年未顕真実」という仏教用語がありますが、お釈迦様が修行の末に悟りを開き法華経で真実を説かれるまでに四十餘年を要したというもの。それはまた、衆生に真実の教えを受ける準備をさせるための期間でもあったという意味だそうです。

 それを例に、難波御堂に欧学校という育英の門を開き、大阪を転々としながら学業修行に邁進してきたが、北野という新天地に至りそこに大変立派な学舎を構えることができた。遂に真実の教えを授かる環境が整ったのです。おめでとう北野生諸君!というお祝いメッセージなのです。

 ちなみに花で表現する意味は4月の花祭り、お釈迦様の誕生祝から来ています。花御堂という仏具を使って生誕を祝いますが、六稜の星校歌では、冒頭の難波御堂にかけて、最後に花は薫りぬと結んでいます。「四十除年、花は薫った。」難波御堂から北野に至る修行の道は辛くとも、大変有意義で充実したものでしたよ、と賛辞。さすが土井晩翠。

 ちなみに我が校の創立は1873年、校歌制定が1915年なので、その間偶然にも42年(四十餘年)です。よって仙台の晩翠から歌詞が届いた際、学校側は「通算の表現」と誤解したのかもしれないですが、北野芝田町(現在の中津、済生会病院付近)への校舎移転は1902年、創立から29年目のことでありました。そもそも晩翠は変数を校歌に織り込むような野暮な作詞は致しません。

 最後に、晩翠の歌詞原作は“北野中學”、これを”きたのこうこう”と読み替えて歌うのは時代の変遷で仕方がないことでありますが、晩翠が作った詞には大変深い意味が随所に埋め込まれていますので、原作はどうか一文字たりとも変更せずに歌い継いでくださいね。現役諸君、よろしくお願い致します。(第05話へ続く

(文責:98期 佐野憲一)

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