創立150周年のお手伝いで母校に立ち寄った際、六稜会館地下にあるギャラリーに六稜の星校歌の楽譜コピーが展示されているのを偶然見かけました。傍らの巻物は当時の北野中学校長梶山延太郎から東京音楽学校長(現在の東京藝術大学)湯原元一に宛てた書簡、達筆の草書体。この手紙には一体何が書かれていたのでしょう。ふとした疑問から私の校歌謎解きの旅が始まりました。
六稜の星校歌に関する作曲依頼資料は、上野の東京藝術大学音楽学部大学史史料室に保管されています(※)
今回大学史史料室さまから特別にご許可を頂き、作曲依頼資料のマイクロフィルム画像を入手することができました。北野中学梶山校長からの作曲依頼書、日付は1915年(大正4年)10月16日。
校歌を別紙の通り作成しました。つきましてはこの詞に曲を付けたく貴下ご所属の適任の方にご依頼くださいますようお願い申し上げます。大正天皇即位の御大典の記念として校歌を選定する都合上、勝手ながら今月中に作曲をお願い致します。
という、勝手かつ至急の依頼でありました。
交通網が未発達であった大正初期の郵便事情では、大阪~東京間の配達は通常一週間弱を要していたそうですが、東京音楽学校から北野中学に楽譜を出荷する際の稟議書日付が10月26日、このことから岡野貞一が実際に作曲を行ったであろう日付が推定できます。
湯原校長からの指名で岡野貞一が作曲を請け負ったのが10月22日(金)~23日(土)頃。週末を挟んで10月25日(月)に岡野は音楽学校事務局に楽譜を納品し、湯原校長の承認印を受けています。そして翌10月26日(火)には大阪の北野中学に向けて発送を終えているのです。
これらの経緯から岡野貞一が六稜の星校歌を作曲したXデーは10月23日(土)か24日(日)。日曜日の岡野は教会でのオルガン当番だった事情を勘案すると、作曲実務にあたったのは10月23日(土)午後のことだと思われます。日付は多少前後したとしても六稜の星校歌の作曲に要した日数はわずか一日二日、天才作曲家岡野貞一の神業でありました。
文献調査を進めるうちに、校歌に関する驚きの事実が判明、歌詞に込められた土井晩翠の言葉の意味、巧みな空間設計、隠されたまさかの図形、一文字の謎掛けなど、これまで考えもしなかった事柄が次々と詳らかになりました。
150周年を記念してこれらの調査結果を『北野校歌ダ・ヴィンチ・コード』と題して順次レポートしたいと思います。(第02話へ続く)
※『東京音楽学校作曲委託関係書類 自明治四十年十月 至大正四年十一月』
(文責:98期 佐野憲一)
この記事へのコメントはありません。