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第08話 『トルストイに論争を挑んだ男、金田楢太郎』

 北野芝田町校舎(中津、済生会病院付近)完成直後に赴任した校長が第8代金田楢太郎です。1902年から1913年まで在任11年。30代以上続く北野の校長史の中でも在10年越えは指折りの長さです。

金田校長は、体育行事で市岡中学とトラブルを起こしてしまったことを理由に保護者や生徒たちから排斥運動を起こされてしまい、卒業式まで職務を全うすることができませんでした。ちなみに前任の三重県第一中学校長時代も生徒から辞職勧告を受け排斥されてしまったという、何だかヤンチャな経歴を普通にお持ちの方なのです。

1869年大阪堺市生まれ。東京大学理学部地質学科卒。大分県尋常中学校教諭、大分県測候所長事務取扱。奈良県尋常中学校教諭、校長事務取扱などを転々、1901年三重県第一中学校長、1902年より北野中学の校長となります。

 33歳での北野中学校長就任はおそらく史上最年少ではないかと思われます。

 樺太や朝鮮半島の鉱物資源調査で功績を上げ、著書も多数。授業より秘宝の発掘に没頭してしまうインディ・ジョーンズのような方だったのではないかと妄想しております。

 北野の歴史を俯瞰すると、六稜の星校歌が制定されるベストタイミングは金田校長の時だったのではないかと思います。1902年、北野に念願の新校舎完成、土井晩翠の歌詞2番にありますが、♪その昔難波御堂に、堂島に、次ぎて北野に育英の門を開きて、四十余年花は薫りぬ。が、まさに金田校長の時であります。また、1873年の創立から30年という節目もありました。しかしながら金田校長にとって校歌の制定など全く興味がなかったのではないかと思います。

 金田校長が愛していたもの、それはウィリアム・シェイクスピア。

北野中学赴任後すぐさまシェイクスピア講演会を学内で謎開催してみたり、1908年3月10日、卒業式を間近に控えた時ですら、ロシアの文豪トルストイが書いたシェイクスピア論評に極東から果敢に論争を挑むなど、その筋にしっかり没頭しておられたようです。

 金田校長がトルストイに挑んだ論争、その手紙がモスクワのトルストイ博物館で偶然見つかりました。1994年2月14日付の朝日新聞夕刊に記事が掲載されていましたので転載します。朝日新聞さまどうかお許しくださいませ。

 金田校長が排斥されてしまった1913年の春、後任に指名されたのが六稜の星校歌を制定した梶山延太郎校長です。1913年4月の入学式は金田校長がやらかした後の混乱で校長不在。その年7月になってようやく梶山延太郎氏が着任したのです。梶山は当時文部省の官僚で大阪に赴任していた視学官、現地教育行政のお目付け役でありました。北野への着任理由は自由奔放な金田校長の監督責任を取らされた形だったのかもしれません。

 六稜の星校歌はその後百年以上も歌い継がれますが、金田校長がもし北野の校歌を制定していたならば、六稜の星校歌のような微妙な曲調ではなく、インディ・ジョーンズのテーマのようなどこかウキウキワクワクするものになっていたのではなかろうかと、妄想しております。

北野中学校長金田楢太郎、ご退任の直前1912年に弱冠43歳にして国家から勲章を授与されています。

六稜魂をお持ちの魅力的な方だったのではないかと思われます。(第09話に続く

(文責:98期 佐野憲一)

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