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第06話 『六稜の星校歌は闇校歌』

 戦前、学校校歌を制定するためには文部省による歌詞や楽曲の検定を受け、認可が必要だった時代がありました。1890年代半ば日清・日露の頃から文部省は訓令によって校歌制定について厳しい統制を開始します。当時の軍歌で諸外国を罵倒するようなものが流行し、学校で使用する校歌においては教科書と同じく内容を統制すべき、このような考え方が背景にありました。
 1915年に採用された我が六稜の星校歌、ではいつ文部省の認可を受けたのか過去の官報を検索してみましたが、残念ながら記録を見つけることはできませんでした。

 話は変わります。1935年11月北野中学にもう一つの校歌があったことを皆さまご存知でしょうか。作詞:佐佐木信綱、作曲:橋本国彦(36期卒) 当時「新校歌」と呼ばれたものです。

一 洋々と湛ふ大淀川 流れて止まず進みて倦まず
皇國の爲に日毎に學ぶ 永き歴史の歩みを見ずや
   六稜の星はかゞやく 我等天下の北中健兒
二 宏々と聳ゆ大阪城 日に日に仰ぐ學びの窓に
豐太閤の偉業が示す 高き理想の姿を見ずや
   六稜の星はかゞやく 我等天下の北中健兒
三 隆々と榮ゆ大大阪 東亞の文化燦たるところ
尊き天の使命を擔ふ 大き希望の光を見ずや
   六稜の星はかゞやく 我等天下の北中健兒

楽譜はこちらです。

曲は下の▷でお聞きになれます。

 『北野百二十年誌』の131頁に記載があります。
【佐々木信綱作詞の新校歌完成 橋本国彦(36回)が作曲】との見出し

「それまでは1915年土井晩翠作詞の校歌が歌われてきたが、爾来20年、生徒数は1400名を越え、校舎も新しく十三に移転したことなどから、新校歌作成の声があがり・・・」
「佐佐木信綱に依頼したのは、彼が江崎校長夫人の和歌の先生だったからで・・・」
「六稜同窓会からは、校歌は新しく作ってほしくないが、どうしてもというならば作曲は本校関係者に・・・」
「新校歌は1940年頃から卒業式や音楽の時間にさかんに歌われた・・・」
「ラグビー部の天王寺高校戦などの時は旧校歌が歌われた」
「終戦後は、歌詞の皇国などの表現が時代に相応しくなくなったこともあって、この校歌は歌われなくなり・・・」


ここで小生の感想を述べさせて頂きます。

1.北野中学教職員各位へ
佐佐木信綱が校長夫人の和歌の先生だったから?はーっ?何を忖度してるのですか。しかも新校歌作成理由はどれも説得力に欠け、全く意味不明です。土井晩翠もひっくり返ってますよ。
2.六校同窓会各位へ
当時の岡野貞一が無名だったからといって、作曲は本校関係者になどという半端で安易な折衷案で迎合しないで頂きたいです。徹底抗戦して六稜の星校歌の伝統を守る気概を見せて欲しかったものです。
3.ラグビー部諸先輩方へ
新校歌制定の怪しい風潮に流されず六稜の星校歌をしっかり守ってくださり本当に有難うございました。天高とのアフターマッチファンクション、素晴らしいですね。OBとして誇らしい思いです。


 ちなみに、新校歌『洋々と湛ふ大淀川』は1940年12月28日官報第4194号、歌詞及び楽曲採用認可年月日:12月23日として掲載され、ちゃっかり認可済みでありました。

ということは、我が六稜の星校歌、1915年の誕生から1940年新校歌認可までの25年間、実は未認可の【闇校歌】であったことが判明してしまった訳です。
六稜の星校歌が北野中学に納品された1915年11月初め、校長梶山延太郎はなぜ六稜の星校歌の認可を求めなかったのか。バリバリの文部官僚だったにも関わらず、何か申請できない裏事情でもあったのか、謎が深まります。



小生の推測を述べます。
1915年10月下旬、急ごしらえで作詞作曲した経緯から、認可手続きの時間が取れないまま「北野中学校校歌」として11月の大正天皇即位式で生徒に大々的に斉唱させてしまった。即位式採用曲がまさか未認可だったとは言えず、後追いで申請することも憚られ、闇校歌斉唱を世論が許すはずもない。自らの立場ありそっとお茶を濁したのではなかろうか。

戦後、校歌に関する文部省の許認可は制度自体廃止になりました。(第07話に続く

(文責:98期 佐野憲一)

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