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第09話 『岡野匡雄さんと北野の接点』

 六稜の星校歌作曲者である岡野貞一先生のご長男、岡野匡雄(まさお)さんは東京文京区、後楽園にお住まいの会社員の方でした。

 大正初期の話ですが、教科書や公の音楽著作物に関して、作詞者・作曲者など個人の名は記載せず、楽曲制作に携わった本人達も他言しないという決まりごとがありました。岡野貞一、この守秘義務を遵守する姿勢はかなり徹底したものだったとのこと、奥様やご子息の匡雄さんに対してですら、自分が作曲した曲名はおろか、音楽学校での仕事についても、自宅で話そうともしなかったそうす。

 岡野貞一の奥様が、幼少の匡雄君を背負い、♪桃太郎さん、桃太郎さん♪ と子守唄であやしていたところ、通りがかった貞一が「俺の曲・・」と小声で呟き、過ぎ去った。その後家族の問いに何も答えようとしない。そんな謎のエピソードが残っています。

 本郷中央教会での礼拝当番、貞一のオルガン演奏の様子を見学に行った匡雄君は、父のオルガン部屋に入ることを拒否され、匡雄君は途方に暮れ鍵穴から演奏を覗いていた記憶があるとのことでした。

 全身全霊仕事に打ち込む、岡野貞一は自分の業に対し大変厳しい考えをお持ちの方だったのではないかと思います。

 岡野貞一は1941年12月29日、63歳にて永眠します。

それから25年も後になって、我が国に音楽著作権保護に関する考え方が浸透し始めます。

それは、1967年のことでした。

♪兎(うさぎ)追いし かの山 小鮒(こぶな)釣りし かの川 夢は今も めぐりて、忘れがたき 故郷♪

誰もが口ずさめる日本の名曲『故郷』は、岡野貞一の作曲であったと認定されます。

以降、岡野の驚異的な作曲実績が次々と世の中に知れ渡ることになります。

『故郷』、『春が来た』、『春の小川』、『朧月夜』、『紅葉』、『日の丸の旗』、『桃太郎』。

これらはみな岡野貞一の曲なのです。

北野高校の関係者にとって、この事件は他人事ではありませんでした。

驚愕するとともに、それは大変誇らしいこと、感動へと変化しました。

1967年まで、我が六稜の星校歌を作曲した岡野貞一とは、東京藝大の先生だったらしいという一般認識でした。それが一転、北野の校歌って『故郷』の作曲者岡野貞一の作品なんだって!という驚きの転換でありました。

この時、作詞:土井晩翠 作曲:岡野貞一という奇跡のツートップに新たな価値が生じたのです。

 楽曲著作権に関する一連の調査で、岡野貞一側の窓口になっていらしたのが岡野匡雄さんでした。

 推測ですが、北野高校音楽科の西川昭子先生は、1967年以降の報道を通じて岡野貞一の功績や岡野匡雄さんのことを知り、六稜の星校歌原譜や東京藝大における保管場所のこと等いろいろ調査されたのではないかと思います。

 西川先生のご尽力がなかりせば、六稜の星校歌の原譜や土井晩翠の歌詞、当時の書簡も詳らかになることはなかったでしょう。西川先生の行動力、本当に素晴らしい。(10話に続く

(文責:98期 佐野憲一)

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