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第12話 『土井晩翠の筆跡鑑定』

 東京藝術大学に保管されている六稜の星校歌、土井晩翠の歌詞に関してですが、これが晩翠の直筆なのか、北野関係者が写したものなのか?そもそもの疑問があります。

 この時代、原本と手書き写しとの区別をつけるため押印がありました。押印アリ原本は発注者(北野中學)が保管し、依頼先の東京音楽学校に「写し」を送るものと思っていました。

しかしながら、東京藝大に残っている六稜の星校歌の歌詞は一文字一文字がとても美しく芸術的で、単なる写しとは思えない完成度の高さだったのです。(歌詞に晩翠の押印はありません。)

 加えて、幾つもの文字が土井晩翠の直筆にとてもよく似ており、北野中學の先生が作曲用のインプットにさらっと複写したものには見えなかったのです。

 もしかして、晩翠の直筆原本を誤って東京音楽学校に送ってしまったのではないか?「梶山校長痛恨のミステイク説」を立ててみました。

 1915年10月、大正天皇即位大典を翌月に控えているにも関わらず納品が遅れに遅れていた土井晩翠の詞、北野に納品されるやいなや、梶山校長は文部省への校歌認可申請すらそっちのけ、てんやわんや。写しも取らないまま、東京音楽学校湯原校長に原本を封入してしまい、それが現在まで東京藝大に保管されてしまったという仮説です。

 

ともあれ晩翠の筆跡鑑定をしてみました。

晩翠若かりし頃の筆ですが、原稿用紙に美しい楷書体で几帳面に作品を書き上げています。

さすが正統派の詩人です。

東京大学大学院在学中に「荒城の月」が大ヒットし、若くから天才詩人として文壇で活躍、荒城の月の色紙サインを量産しました。歳とともに、おそらくサインはかなり面倒になったのではないかと思います。

東北大の教授時代は右肩上がりの走り書きが目立ちます。

筆の跳ねに極端な傾向(例えばしんにょうの右流しをレ点のように跳ね上げる。)が出ます。

 

 太筆・中筆文字とは別に、小筆を使う場合は字体が変化します。

左手首に筆の右手を乗せ、筆先に繊細な感覚で書く小筆の文字は、太筆や中筆で書く字体と異なって当然かもしれません。

 晩年は崩し字が増え、跳ねの力は弱まり、角は取れ、総じてふんわりと丸まっていきます。そういうものだと思います。

 さて、北野校歌作曲の1915年、土井晩翠は44歳でした。しかしながら、東京藝術大学保管の六稜の星校歌原文は、晩翠が若い時代に書いていた楷書体の文字にとても似ています。

一文字単位で見ると晩翠の字の癖が見られるのですが。

詞全体を俯瞰すると晩翠のものとは違って見えます。

 土井晩翠研究の第一人者、仙台文学館の学芸員の先生に筆跡鑑定をお願いしてみました。

「晩翠の直筆と思うのですが、先生いかが思われますか?」

「比較的広いスペースに太筆で書いた時の文字、色紙などに中筆で書いた時の文字、原稿用紙や巻物に小筆で書いた時の文字など様々です。また年齢によっても字体は変化します。今回お持ちいただいた資料を拝見しただけで一概には言い切れません。晩翠が40代の時に小筆で書いた筆跡に似ている文字が幾つかはありますが、全体を俯瞰して、おそらく本人のものではないと思います。」

セカンドオピニオンを取りました。

今度は意図的に似ている文字ばかりを集め、仙台市青葉区にある土井晩翠の生家跡、晩翠草堂の館長を訪ねてみました。

館長の判定、「佐野さん、私には晩翠の字には見えません。」

サードオピニオン。

テレビ東京、開運何でも鑑定団にご出演の日本古文書解析の第一人者、M教授にメールで鑑定を依頼。

「残念ながら晩翠ではありません。」併せて丁寧なご解説も頂戴しました。

4回目ダメ元。さらに多くの資料を集め、もう一度、何でも鑑定団M教授に郵送で依頼を行ってみました。すると、何と!ゆうパックで一式ご返送の上、お叱りのお手紙を頂戴してしまいました。

教授曰く、いくら貴殿が材料を集めても、私は専門家として初回と異なる回答は致しません。よってこの度の鑑定は行いません。貴殿が土井晩翠の文字に一定の自信を持ち、自らの仮説に沿って真偽を証明したいのであれば、多くの原本を収集し比較の上で貴殿のお考えを証明さればよろしい。それが事実になるのではないでしょうか。と。大変失礼致しました。

皆さん、私は持論を貫きたいです。

以下、晩翠の直筆に見えませんでしょうか?

(左:晩翠直筆の文字 右:北野から東京音楽学校に送った歌詞の文字)


第13話に続く

(文責:98期 佐野憲一)

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